白地城

別名 白地大西城  付近住所 徳島県三好市池田町白地本名165-6 現在 あわの抄
2009/9/21 碑・案内板アリ 日本城郭大系


大西氏 白地大西城は田井庄(四国中央部)の庄司近藤氏が建武2年(1335)この地に城を構え、郷名をとって大西と改姓し、政を取って以来8代(250年)にわたる居城である、大西とは阿波の最西地を意味し往時この地は土佐、讃岐、伊予の各地に通ずる兵事交通の要路であり大西氏は外に出ては大剛、内にあっては民治に意を用いた領主であった。
天正3年(1575)長曾我部元親は阿波侵略を開始し南方の海部氏が最初に領土を奪われ、天正5年(1577)には大西氏も防戦かいなくその所領を侵され城主大西覚養は身をもって讃岐麻城に難をさけた、元親は白地城に入りこれを改修して根拠地とし四国統一の志をなしとげた、その後元親は天正13年(1585)豊臣秀吉の四国遠征軍との戦に破れ土佐に退いた、以来大西城は廃城となったが最近にいたるまで旧城の最高地の削平地、から堀、武者ばしり等が残存し、往時をしのぶことができた。